動悸を感じて病院を受診し、検査で「異常なし」と言われた経験がある方は少なくありません。漢方では、こうした動悸の背景に「気逆(きぎゃく)」と呼ばれる、気が下から上へ突き上げるような状態があると考えられることが多く、この気逆に対応するとされる生薬が桂皮(けいひ)です。実際、動悸に用いられることがあるとされる代表的な漢方処方の多くに、この桂皮が配合されています。
この記事では、桂皮という生薬の基本情報から、漢方における動悸の捉え方、桂皮を含む・含まない代表的な処方の考え方までを整理してご紹介します。ただし、動悸には医療機関での確認が優先されるべきケースが含まれるため、まずその点から解説します。なお当院は鍼灸院であり、漢方薬の調剤・処方・販売は行っておりません。また本記事は動悸に対する鍼灸施術の効果を標榜するものでもなく、漢方の伝統理論の紹介を目的とした情報提供です。実際の漢方薬の使用については医師・薬剤師にご相談ください。
動悸を感じたら、漢方を考える前に確認したいこと
動悸があるときにまず大切なのは、漢方を試す前に、緊急性の高い病気が隠れていないかを医療機関で確認することです。動悸は非常にありふれた症状である一方、その裏に隠れている原因は幅広く、命に関わる病態から、良性の不整脈、不安によるものまで多岐にわたるとされています。
血圧低下やショックにつながる病気をまず除外する
特に注意が必要とされているのが、血圧低下やショック状態を引き起こす病気です。代表的なものとして、細菌感染が全身に広がる敗血症、体内の血液や酸素を運ぶ力が低下する貧血、体内の水分が不足する脱水などが挙げられます。これらはいずれも、体が血圧を保とうとして心拍数を上げるため、結果として動悸として自覚されることがあるとされています。
発熱時の頻脈、甲状腺疾患、薬剤性の動悸も見逃しやすい
インフルエンザなどで発熱しているときも、体温の上昇に伴って脈が速くなり、動悸として感じられることがあります。また見逃されやすいものとして、甲状腺の機能が過剰に高まる甲状腺疾患のほか、気管支を広げるβ作動薬、抗コリン薬、気管支拡張薬として使われるアミノフィリンなど、各製品の添付文書等でも副作用として動悸が知られている薬剤の影響も挙げられています。
これらの薬を服用中の方は、自己判断で中止・減量せず、必ず処方した医師や薬剤師に相談してください。日常的に摂取しているコーヒーやお茶などのカフェインが動悸に関わっていることもあるため、自分の摂取状況を振り返ってみることも一つの手がかりになります。
不整脈と自覚症状は必ずしも一致しない
不整脈も動悸の原因として鑑別に挙げられますが、不整脈があっても症状として自覚されにくいケースが少なくないと言われることがあり、逆に重篤な心疾患があっても動悸として自覚される例ばかりとは限らないとされています。つまり、「動悸を強く感じるから重い病気」「症状がないから大丈夫」と単純に結びつけられるものではなく、この非対称性ゆえに、動悸の原因を自己判断で決めつけないことが重要だとされています。
以下のような症状を伴う場合は、漢方を検討する前に、循環器内科や内科での確認を優先することが望ましいとされています。
- 動悸とともに胸の痛みや締め付け感がある
- 突然意識が遠くなる、失神したことがある
- 脈が異常に速い、あるいは極端に遅い、脈が飛ぶ感覚が続く
- 息切れ、むくみ、体重の急な増減を伴う
- 手の震え、発汗過多、体重減少など甲状腺機能の異常を疑わせる症状がある
- もともと心疾患や不整脈の既往がある、家族に若くして心臓病で亡くなった人がいる
これらを除いたうえで、自律神経の乱れによる動悸が考えられる
敗血症・貧血・脱水・発熱・甲状腺疾患・薬剤性・カフェインの影響などを一通り考慮し、除外できた場合に、自律神経失調症や不安によるものと考えられる動悸が視野に入ってくるとされています。漢方薬が選択肢として検討されやすいのは、主にこの段階の動悸です。西洋医学的な薬の選択肢が限られやすい場面だからこそ、漢方的なアプローチが検討されることがある、という位置づけになります。
なぜ漢方では動悸に「桂皮」が重視されるのか
漢方では、自律神経の乱れが関わっているとされる動悸の多くに「気逆」という状態が関与していると考えられており、この気逆に対応するとされる生薬が桂皮であることから、動悸に用いられる処方の選択にあたって「桂皮が配合されているかどうか」が一つの目安になるという考え方があります。気逆そのものの考え方については、当院の気逆と桂枝湯についての記事でも詳しく紹介しています。
気逆とは何か―気が突き上げる状態
気逆とは、体を巡る「気」(生命活動を支えるエネルギーのようなものと理解されています)が、本来あるべき流れに逆らって下から上へ突き上げるように乱れている状態を指すとされています。のぼせ、顔のほてり、げっぷ、急に不安になる感覚などとともに、胸から突き上げてくるような動悸を伴うことがあるとされています。
桂皮が気逆に対応するとされる生薬であること
桂皮は、体を温めながら気の巡りを整え、この気逆を鎮める働きを持つとされる生薬として、漢方では古くから位置づけられてきました。そのため、気逆が関わっているとされる動悸に対して、桂皮を含む処方が選択肢として検討されることがあります。
動悸に用いられる処方の多くに桂皮が配合されている
このあとご紹介する苓桂朮甘湯、桂枝加竜骨牡蛎湯、炙甘草湯、桂枝人参湯、柴胡桂枝乾姜湯、柴胡加竜骨牡蛎湯は、いずれも桂皮を含む処方です。一方で、同じく動悸に関連づけて語られることがある真武湯には桂皮が含まれておらず、これは症状の性質や体力の状態が異なることの表れだとされています。気逆以外の部分、たとえば血の不足(血虚)や体内の水分の偏り(水毒)、冷えの有無などは、患者ごとの状態を踏まえて判断されるとされています。
桂皮(桂枝)とはどんな生薬か
桂皮は、クスノキ科の常緑樹であるケイ(Cinnamomum cassia など)の樹皮を基原とする生薬で、体を温め、気の巡りを整える働きを持つものとして古くから位置づけられてきました。
基原とかたち
桂皮は樹皮またはその周皮の一部を除いたものを乾燥させて用いる生薬です。同じ植物由来でも、若い枝を用いたものを「桂枝(けいし)」、幹の樹皮を用いたものを「桂皮」と呼び分けることがあり、生薬としての性質にわずかな違いがあるとされています(詳しくは後述します)。
性味・帰経と伝統的な位置づけ
漢方の古典的な理論では、桂皮は「辛甘・温」の性質を持ち、心・肺・膀胱に帰経する(作用が及びやすいとされる)生薬に分類されます。体を温め、気の巡りを助け、のぼせを鎮めながら気逆を和らげる働きを持つとされ、動悸・のぼせ・頭痛・発汗異常など、気の巡りに関わる症状に対応する処方に配合されることが多い生薬です。
含まれる成分と研究段階の知見
桂皮には桂皮アルデヒド(シンナムアルデヒド)と呼ばれる香気成分が含まれており、このほかにもクマリン類などの成分が知られています。桂皮アルデヒドについては、基礎研究(試験管内での実験や動物実験など)の範囲でいくつかの薬理作用が報告されているとされますが、具体的な研究の対象や条件はさまざまであり、いずれもヒトにおける動悸への効果を裏付けるものではありません。
桂皮を含む漢方薬を服用したときの動悸に対する働きは、個々の研究成分の作用のみで説明できるものではなく、処方全体としての伝統的な位置づけに基づいて理解されているものです。特定の成分の作用と、動悸という症状の変化を直接結びつけて説明することは避けるべきとされています。
漢方における「動悸」のタイプ分け
漢方では、同じ「動悸」という症状でも、気逆に加えて、血の不足(血虚)や水分の偏り(水毒)が関わっているかどうかで、体質や随伴症状の傾向が異なると考えられています。以下はあくまでセルフチェックの目安であり、実際の見立ては漢方に詳しい医師や薬剤師による相談が前提となります。
気逆タイプの目安
気逆は、気が下から上に突き上げるように乱れている状態とされ、動悸のほかに、のぼせ、顔のほてり、急に不安になる感覚、げっぷやしゃっくりが出やすいといった特徴が挙げられることがあります。ストレスや緊張が続いたときに症状が強まりやすい傾向があるとされています。
水滞(水毒)タイプの目安
水滞(水毒)は、体内の水分の巡りが滞っている状態を指すとされ、動悸に加えてめまい、立ちくらみ、耳鳴り、むくみやすい、胃のあたりでチャポチャポと音がする(振水音)といった特徴を伴うことがあるとされます。
血虚タイプの目安
血虚は、体を養う血が不足している状態とされ、動悸とともに、顔色の悪さ、爪や髪の乾燥、立ちくらみ、月経に関する不調などを伴いやすいとされています。体力の低下や疲れやすさを背景に持つことが多いともいわれます。
セルフチェックはあくまで目安、証の判断は専門家に
これらのタイプ分けは、あくまで一般的な傾向を整理したものであり、実際には複数のタイプが重なっていることも多いとされています。自己判断だけで処方を選ぶのではなく、漢方に詳しい医師・薬剤師に体質や症状の経過を伝えたうえで相談することが望ましいとされています。
炙甘草湯―桂枝湯ファミリーの視点から
炙甘草湯は、名前だけを見ると想像しにくいのですが、桂枝湯(けいしとう)という古典的な処方の仲間として位置づけることができます。
桂枝湯からの系統図―芍薬を増減させると
桂枝湯は、桂皮・芍薬・生姜・大棗・甘草の5種類からなる、お腹に優しいとされる処方です。この「お腹への優しさ」を担っているのが芍薬とされています。桂枝湯に含まれる芍薬の量を増やすと桂枝加芍薬湯(けいしかしゃくやくとう)や小建中湯(しょうけんちゅうとう)となり、お腹の痛みに用いられることがあるとされる処方に変化します。反対に、桂枝湯から芍薬を除くと桂枝去芍薬湯(けいしきょしゃくやくとう)となり、お腹よりも胸まわりの症状に用いられることがあるとされる処方に性質が変わるとされています。
炙甘草湯の構成生薬とその意味
炙甘草湯は、この桂枝去芍薬湯に含まれる甘草を、より効果を高めるために加工された炙甘草に置き換えたうえで、体に潤いを補うとされる地黄・麦門冬・人参・阿膠などを加えた構成になっています。地黄は、血を補う代表的な処方である四物湯(しもつとう)にも含まれる生薬であることから、炙甘草湯には血虚(血の不足)にわずかに対応する側面もあると理解されています。
『傷寒論』の条文と現代的な位置づけ
古典である『傷寒論』には、次のような記載があるとされています。
「傷寒解して後、脈結代、心動悸するは、炙甘草湯之を主る。」
これは、熱を伴う病気が治ったあとの体力の消耗が残っている状態で、脈が不規則になり動悸がする場合には、炙甘草湯がまず検討される処方であるという趣旨の記載とされています。なお、こうした古典の条文は、当時の医学書に記された記載であり、現代の医薬品として承認されている効能・効果とは異なるものである点にご留意ください。
現在、一般用漢方製剤製造販売承認基準などに基づく代表的な効能・効果としては、「体力が衰えて、疲れやすいものの動悸、息切れ」といった記載が知られています(製品ごとに記載は異なる場合があるため、実際の使用にあたっては添付文書をご確認ください)。以下の各処方でも同様に承認された効能・効果を紹介しますが、これはあくまで医薬品としての承認内容の紹介であり、当院がその効果を保証するものではなく、個人の体質等により当てはまらない場合があります。桂枝湯がベースにあるため、体力があまりなく、やせ型の体質の方に用いられる処方として整理されることがあります。
苓桂朮甘湯―突き上げるような動悸への伝統的な位置づけ
苓桂朮甘湯は、気逆に対応するとされる桂皮に加えて、体内の水分の偏りに対応するとされる茯苓と朮(白朮または蒼朮)が組み合わされた処方です。腹部から胸のあたりへと何かが突き上げてくるような感覚を伴う動悸や、めまい・立ちくらみを伴う場合に用いられることがあるとされています。一般用漢方製剤製造販売承認基準などに基づく代表的な記載としては、「体力中等度以下で、めまい、ふらつきがあり、ときにのぼせや動悸があるものの、立ちくらみ、めまい、頭痛、耳鳴り、動悸、息切れ、神経症など」が知られています(製品ごとに記載は異なる場合があるため、実際の使用にあたっては添付文書をご確認ください)。
竜骨・牡蛎を含む2処方の対比
桂枝加竜骨牡蛎湯と柴胡加竜骨牡蛎湯は、どちらも竜骨・牡蛎という、気持ちを落ち着かせる働きを持つとされる鉱物・貝殻由来の生薬を含む処方で、胸やお腹のあたりで感じる動悸に用いられることがあるとされていますが、体力の充実度によって使い分けが考えられるとされています。
桂枝加竜骨牡蛎湯―虚証タイプ
古典である『類聚方広義』には、次のような記載があるとされています。
「桂枝加竜骨牡蛎湯。桂枝湯の証にして、胸腹に動ある者を治す。」
これは、桂枝湯が適するとされる体質の中で、胸やお腹に動悸を感じる場合に用いる処方であるという趣旨とされています。こうした古典の条文は当時の記載であり、現代の承認された効能・効果とは異なるものです。現在の一般用漢方製剤製造販売承認基準などに基づく代表的な記載としては、「体力中等度以下で、疲れやすく、神経過敏で、興奮しやすいものの、神経質、不眠症、小児夜泣き、夜尿症、眼精疲労、神経症など」が知られています(製品ごとに記載は異なる場合があるため、実際の使用にあたっては添付文書をご確認ください)。桂枝湯がベースにあるため、体力があまりなく、やせ型の体質の方に用いられることがあるとされ、ドアが急に閉まった音に大げさなくらいびっくりしてしまうような、神経質な傾向を持つ方のイメージと結びつけて語られることがあります。
柴胡加竜骨牡蛎湯―実証タイプ
同じく『類聚方広義』には、次のような記載があるとされています。
「柴胡加竜骨牡蛎湯。小柴胡湯証にして、胸腹に動あり。煩躁驚狂、大便難、小便不利の者を治す。」
こちらも古典の記載であり、現代の承認された効能・効果とは異なる点にご留意ください。柴胡加竜骨牡蛎湯は、小柴胡湯という処方をベースに、熱を鎮める働きがあるとされる大黄などが加わっていることから、比較的体力がある方に用いられることがあるとされ、精神的な高ぶり(イライラしやすい、独り言が多い、寝つきが悪いなど)を伴う場合に検討されることがあるとされています。一般用漢方製剤製造販売承認基準などに基づく代表的な記載としては、「比較的体力があり、心悸亢進、不眠、いらだちなどの精神症状のあるものの、高血圧の随伴症状(動悸、不安、不眠)、神経症、更年期神経症、小児夜泣きなど」が知られています(製品ごとに記載は異なる場合があるため、実際の使用にあたっては添付文書をご確認ください)。
腹診所見は専門家が確認するもの
桂枝加竜骨牡蛎湯・柴胡加竜骨牡蛎湯の使い分けにあたっては、お腹の筋肉の張り具合(腹直筋の緊張)や、みぞおちから脇にかけての張り・圧迫感(胸脇苦満)といった所見が手がかりの一つとされることがありますが、これらは漢方に詳しい医師や薬剤師が実際の診察(腹診)で確認する専門的な所見です。読者ご自身で判断する材料としてではなく、相談時に「こうした所見も踏まえて処方が検討される」という理解にとどめていただくのがよいでしょう。
「冷え」が背景にあるとされる動悸に用いられることがある処方
漢方では、体を温める生薬として、乾姜(かんきょう)と附子(ぶし)がよく知られています。この2つは、いずれも体を温めるとされていますが、温め方のメカニズムが異なると理解されています。
乾姜と附子―温め方の違い
漢方の伝統的な理解では、乾姜は消化管を中心とした「脾胃」を温め、附子は「腎」を温めるとされ、体幹部を中心に温めるのが乾姜、手足の先などの末端を中心に温めるのが附子、というイメージで語られることがあります。ただし、古典である『薬徴』には「乾姜も四肢を温める」といった記載もあるとされ、この整理はあくまで理解を助けるための単純化であり、厳密に切り分けられるものではないとされています。
桂枝人参湯
桂枝人参湯は、消化機能を立て直すとされる人参湯(にんじんとう)に桂皮を加えた処方で、桂皮・甘草・朮・人参・乾姜から構成されています。この構成を分解すると、甘草・朮・人参の組み合わせは、気の不足(気虚)に対応するとされる四君子湯(しくんしとう)から茯苓を除いたものに相当し、桂皮・甘草・朮の組み合わせは、苓桂朮甘湯から茯苓を除いたものに相当するとされています。
つまり桂枝人参湯は、突き上げるような動悸の傾向と、胃腸が弱く倦怠感を抱えやすい虚弱体質の傾向の両方を併せ持つ方に用いられることがあるとされ、乾姜が含まれていることから冷えを伴う体質にも対応しているとされています。『類聚方広義』には次のような記載があります。
「桂枝人参湯。人参湯証にして、上衝急迫の劇しき者を治す。」
こちらも古典の記載であり、現代の承認された効能・効果とは異なる点にご留意ください。
柴胡桂枝乾姜湯
柴胡桂枝乾姜湯は、柴胡・黄芩・栝楼根・桂皮・牡蛎・甘草・乾姜から構成される処方です。桂皮と甘草が気逆を鎮める働きを担い、乾姜が体を温める働きを担うという構成は桂枝人参湯と似ていますが、柴胡桂枝乾姜湯は柴胡剤(柴胡を含む処方群)の一つであり、専門家が腹診を行った際にみぞおちから脇にかけての張り(胸脇苦満)が確認される方に用いられることがあるとされる点が異なります。
また、人参が含まれていないため、吐き気や下痢といった消化器症状があまり目立たない方に用いられることがあるとされ、牡蛎が含まれることから気持ちを落ち着かせる働きも期待される処方とされています。「人前では頑張れるけれども、家に帰ってきた途端に力尽きてぐったりとしてしまう」といったタイプの方に結びつけて語られることがあり、対人関係のストレスで精神的に消耗しやすい傾向と関連づけられることがあります。『類聚方広義』には次のような記載があります。
「柴胡桂枝乾姜湯。小柴胡湯の証にして、嘔せず、痞せず、上衝して渇し、胸腹動ある者を治す。」
こちらも古典の記載であり、現代の承認された効能・効果とは異なる点にご留意ください。
桂皮を含まない例外―真武湯
ここまで紹介してきた処方はいずれも桂皮を含んでいますが、動悸との関連で語られることがある処方の中には、桂皮を含まないものもあります。その代表が真武湯(しんぶとう)で、茯苓・芍薬・生姜・朮・附子から構成されています。
『類聚方広義』には次のような記載があります。
「真武湯。心下悸し、身瞤動し、振々として地に倒れんと欲し、腹痛し、小便不利し、あるいは嘔し、あるいは下痢する者を治す。」
これは、動悸があり、体の震えのような症状があり、ふらついて倒れそうになり、腹痛や乏尿があり、嘔吐や下痢も伴うといった、かなり重い消耗状態を描写した古典の記載とされています。あくまで歴史的な古典解釈としてですが、この条文は、体力・気力が著しく消耗し尽くしている状態を表しているとも解釈されており、この記事で紹介してきた「気が突き上げてくる」ことに対応する桂皮の出番すらない、つまり突き上げるだけの余力も残っていないほど消耗した状態だからこそ、桂皮を含まない構成になっている、という読み方がされることがあります。桂皮という軸から見ると、真武湯はいわばその裏側にある処方として位置づけられます。
なお、こうした古典の記載は当時の重篤な病態を想定したものであり、現代において動悸とともに強いふらつきや腹痛、嘔吐・下痢を伴うような状態は、自己判断で漢方薬を選ぶのではなく、速やかに医療機関を受診すべき状態です。真武湯を含め、このような処方は専門家の判断のもとで検討されるものであり、この記事の内容は読者ご自身が症状に応じて処方を選ぶための基準として書かれたものではありません。
桂皮と桂枝、そしてシナモンの違い
桂皮と桂枝は同じ樹木に由来しながら使用部位が異なる生薬であり、また食品として流通するシナモンとは、品質管理や用途の点で位置づけが異なります。
桂皮と桂枝は同じ植物の違う部位
前述の通り、桂皮は樹皮を、桂枝は若い枝(または枝の樹皮)を基原とする生薬です。古典的には、桂枝の方が発汗・発散させる働きに優れ、桂皮(肉桂と呼ばれる幹の樹皮由来のものを含む)の方が体を温め気を巡らせる働きに優れるといった使い分けの理論があるとされていますが、現在の日本の漢方エキス製剤の多くでは、原料として桂皮が用いられていることが一般的です。
食品のシナモンと医薬品の桂皮は別物
シナモンは、桂皮と近縁の樹種の樹皮を基原とするスパイス(食品)であり、香辛料として料理や菓子作りに使われています。一般的な食品としてのシナモンには、医薬品的な効能・効果は認められておらず、動悸などの症状に対する働きを期待して食品としてのシナモンを摂取するという発想は、漢方における桂皮の使われ方とは区別して考える必要があります。漢方薬に配合される桂皮は、医薬品として品質や規格が管理された生薬であり、食品のシナモンとは前提が異なる点に注意が必要です。
桂皮を含む漢方薬を使ううえでの注意点
桂皮を含む処方は比較的マイルドな性質を持つとされていますが、体質によっては注意が必要な点がいくつかあります。
甘草を含む処方と偽アルドステロン症
苓桂朮甘湯、桂枝加竜骨牡蛎湯、炙甘草湯、桂枝人参湯、柴胡桂枝乾姜湯など、この記事で紹介した処方の多くには甘草が含まれています。甘草を含む複数の漢方薬を同時に、あるいは長期間服用した場合、むくみ、血圧上昇、手足のだるさやしびれ、筋力低下などを特徴とする偽アルドステロン症と呼ばれる状態が生じることがあり、厚生労働省の重篤副作用疾患別対応マニュアルや各製品の添付文書でも注意喚起されています。複数の漢方薬を併用する場合や、長期間服用を続ける場合は、医師・薬剤師に相談することが望ましいとされています。
附子を含む処方の注意
真武湯などに配合されることがある附子は、体を温める働きを持つとされる一方、体質や量によっては、動悸の悪化、のぼせ、舌先や口唇のしびれといった症状が現れることがあるとされています。附子を含む漢方薬は、医師・薬剤師の管理のもとで用いることが特に重要とされる生薬です(なお、本記事で紹介した処方のうち桂枝人参湯は乾姜を含みますが、附子は含みません)。
アレルギーや体質による注意
桂皮に対して発疹やかゆみなどのアレルギー様症状が生じることがあるとされています。服用後に皮膚症状や胃部不快感、動悸の悪化などが見られた場合は、服用を中止し、処方した医師や薬剤師に相談することが勧められます。
妊娠中・授乳中、他の薬との飲み合わせ
妊娠中・授乳中の方、他に治療中の病気があり薬を服用中の方は、自己判断で漢方薬を追加する前に、必ず医師・薬剤師に相談することが推奨されています。特に大黄を含む柴胡加竜骨牡蛎湯などは、体質によってはお腹が緩くなることがあるとされ、妊娠中の使用については慎重な判断が必要とされています。同様に、附子を含む真武湯などについても、妊娠中・授乳中の使用は特に慎重な判断が必要とされており、自己判断での使用は避け、必ず医師・薬剤師に相談してください。
よくある質問(FAQ)
Q1. 動悸に用いられる漢方薬に桂皮が多いのはなぜですか。
A. 漢方では、自律神経の乱れが関わっているとされる動悸の背景に、気が突き上げるような「気逆」という状態があると考えられることが多く、この気逆に対応するとされる生薬が桂皮であるためです。そのため、動悸に用いられることがあるとされる処方の多くに桂皮が配合されているとされています。
Q2. 苓桂朮甘湯と桂枝加竜骨牡蛎湯はどちらを選べばよいですか。
A. めまいやふらつきなど水分の巡りに関わる症状、疲れやすさや神経の高ぶり・不眠といった随伴症状の違いが、専門家の間で検討材料の一つとして語られることがあります。ただし、あくまで一般的な傾向として語られることがある例に過ぎず、ご自身でどちらが適するか判断せず、必ず漢方に詳しい医師・薬剤師にご相談ください。ここでの情報は、相談時の会話の材料としてお役立てください。
Q3. 桂皮を含まない真武湯も動悸に関係するのはなぜですか。
A. 真武湯は古典において、体力・気力が著しく消耗し尽くした重い状態を想定した処方とされ、気が突き上げる余力すらないほどの状態であるために桂皮を含まない構成になっている、という解釈がされることがあります。ただし、これは歴史的な古典解釈であり、強いふらつきや腹痛、嘔吐・下痢を伴う動悸は自己判断せず医療機関を受診すべき状態です。
Q4. 市販のシナモンを摂取すれば桂皮と同じような働きが期待できますか。
A. 食品としてのシナモンには医薬品的な効能・効果は認められておらず、漢方薬に配合される桂皮とは品質管理や位置づけが異なります。動悸などの症状に対して食品を代替として用いることは推奨されません。
Q5. 漢方薬は副作用がないので安心して自己判断で選んでよいですか。
A. 漢方薬も医薬品であり、体質に合わない場合や甘草・附子を含む処方の重複などにより、むくみや血圧上昇、しびれといった症状が生じることがあるとされています。自己判断のみで選ぶのではなく、医師・薬剤師のアドバイスを受けながら使用することが推奨されています。
まとめ
あらためて、当院は鍼灸院であり、本記事で紹介した漢方薬の調剤・処方・販売は行っておりません。気逆や桂皮の考え方は東洋医学の伝統理論として鍼灸の背景知識にも通じるため、体系的な理解の一助として紹介しています。
動悸は、敗血症・貧血・脱水といった血圧低下やショックにつながる病気、発熱時の頻脈、甲状腺疾患、薬剤性やカフェインの影響など、幅広い原因を考慮したうえで、それらを除外できた場合に自律神経の乱れによるものと考えられる症状です。
漢方では、この自律神経の乱れに関わる動悸の背景に「気逆」という気の突き上げが想定されることが多く、これに対応するとされる桂皮が、苓桂朮甘湯、桂枝加竜骨牡蛎湯、炙甘草湯、桂枝人参湯、柴胡桂枝乾姜湯、柴胡加竜骨牡蛎湯といった代表的な処方に配合されています。一方で、体力・気力が著しく消耗した状態を想定する真武湯には桂皮が含まれておらず、この対比が漢方における動悸の捉え方の奥行きを示しています。
それぞれの処方には古典の記載や承認された効能・効果の範囲があり、体質や随伴症状、専門家による腹診などの所見を踏まえて検討されるものです。自己判断で処方を選ぶのではなく、まず医療機関で重篤な病気が隠れていないかを確認したうえで、漢方に詳しい医師・薬剤師に相談しながら進めることが望ましいといえます。気逆・気血水の基礎理論は当院の漢方薬とは?証・気血水・選び方でもまとめています。
【本コラムの監修】
国家資格登録番号
はり師 第13878号
きゅう師 第24519号
・当院について
鍼灸治療では、頭の鍼と経絡治療を用いた本格的な鍼灸施術を行います。身体が本来持っている回復力を高め、バランスが崩れた身体が元に戻るためのお手伝いをします。局所の施術だけでなく、触診や視診を重視する伝統的な診察方法で全身の状態を観察し、身体と対話をしながら、日本人の体質に合わせた鍼灸治療を心掛けております。

